ファッションってなんでしょ

そこそこの時代や共同体に認められた価値を持つ装いと言ったらよいだろうか。そこには社会が認める、という強制力が必ずある。いつの時代にもどんな場所でもそうだろう。

 だけど、今って、日本以外知らないけど、商業戦略に完全に乗せられて過剰に常なる変化をお互いに要求し合って、めまぐるしく変わる価値に窒息しそうになっている。

 それに加えて、若者自体が明らかに体育会系化していることによるのだろうか、ファッションにおいて攻撃性という側面がかなり強くなっている気がする(臀部さんとリプして)。趣向やセンス、受け手のそれに応じてある程度は多様であるかもしれないけど、「おしゃれたるべき」、や「攻撃性」をもったファッションによる抑圧、には若いころは恐怖と嫌悪感しか自分は感じなかったし、今までも興味はわかなかった。これからもたぶん。今もぼろ布をかぶったような自分のファッションスタイルで満足している

 だけど、一方では水野しずさんやコンノモモカさんのファッション?には逆に釘付けになってしまうほどの魅力がある。しずさんがaskで述べられてた「楽しく未知であり変化の可能性や浮遊感」のあるファッション、紺野さんの時空を歪ませるような波動のようなものすら感じてしまう 目の眩むそれに、ファッションというよりアートに、一般的なファッションに全く感受性も興味も持ち合わせていない人間がどうして強い魅力を感じてしまうのだろう。
 もちろん自分のような人間には遥か次元の違う方々の想像力や感性を感得することは到底できないけれど、そこには「価値」の安定、つまり価値を守るということが根底にあるんじゃないだろうか。

 つまりまず自分の感性をまず守りきるということ。それはつまり他のそれも守るということ。個の人権とかそんなんじゃなくて、感性とか孤独、そういうものが大事にされている時代には、物質的豊かさや政治形態を問わず、個が統合されたソーシャルとしてのファッションも、やはり良いものになるんじゃないか。アイヌとかインディアンのファッションとかってやっぱりかっこいい。個の延長には必然的に故人、その集合としての歴史が含まれる。良いものは時代を問わずやはり良い、過去を大事にするということ
 逆に大衆的な時代においては、価値は不安定なものとなり画一的で刹那的なものとなるから、そういう時代に忌避されたもの、弾圧されてきたものに強い価値が凝縮される。
 水平化の鎌に刈り取られることを断固拒否し、抑圧されたもの、なかったことにされてしまったものを守るために戦っている「ファッション」であるきがしてならない(でち)

 

はい、はい

 

あーだいぶ飲んだ~~ でち